"はなたれ小僧"カテゴリーの記事一覧
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【子どもは未来からの留学生】
教育の世界には子どもを形容する表現は数多くありますが、僕はこの言葉が一番好きです。子ども達が様々なものを受け継いで戻っていくのは未来の世界である、と。生徒を教えるとき、そして、絵舞と遊ぶとき、このことを頭に入れて接するようにしています。
絵舞がおじいちゃんを知らないように、僕も祖父を知りません。当時の難病であった百日咳を患い、僕が生まれる前に、四十代の若さで他界したと聞きました。
バイオリン奏者だった祖父は、満州で小学校の教師をしていたそうです。楽団で演奏したり、都会に出掛けたり。いわゆるハイカラさん? 古い白黒の写真を見たことがあります。とてもハンサムでした。形見としてバイオリンが残っていると思いきや、祖母が質に入れたとのこと(笑)
ひいおじいちゃん、絵舞です。いつも笑ってるよ!
祖父なきあと、祖母ひとりの手によって育てられた絵舞ばぁばは、地元で珠算塾を経営しています。主に小学生を中心に教えています。僕にとっては優しかった祖母も、絵舞ばぁばには手厳しかったようです(^_^) あれやこれや指示を受けながら、なんでもひとりでやらされて大変だったとよく言っていました。
親父の両親は、鍛冶屋を営んでいたようで、小さい頃から一緒に手伝っていたそうです。退職後、熊手から鍬や鋤まで自作しながら「遊んで」いました。作ったものを楽しそうに見せてくるとき、遊んでいるように見えたのです。
休日は朝から晩まで畑にいました。僕は親父にはあまり怒られたことはないのですが、ある日、あまりにも畑仕事を手伝わない僕に業を煮やして「石拾いぐらいてごぉせぇ~!」と怒鳴られたのは今となっては良い思い出です。ごめん、親父m(__)m でも、高校三年生の受験勉強の時期だったよ、あれは(笑)
絵舞ばぁばと畑 (2020年7月)
そんな親父の自慢の畑はいま、絵舞ばぁばが引き継ぎ、手入れをしながら野菜をたくさん作ってくれています。実家に帰るときはいつも、どっさり野菜がもらえます(^з^)-☆ ありがとうm(__)m
絵舞と野菜 (2019年9月)
さて、両親がそうだったように、僕自身も二人から「何か」を受け継いで「今」を生きています。対話を通して、また、共有した時間を通して受け継いだもの。それらすべてを、未来に戻っていく絵舞に注ぎます。今回のブログを書くことによって、より一層、絵舞に対する愛情と責任を強く感じることができました。
ケンタクにも同じことが言えると思います。僕はまだケンタク歴10ヶ月の赤ちゃんのようなものです。実年齢も四十代のはなたれ小僧です。これからも様々なことを受け継いで、この先10周年、20周年を迎えることになる健康卓球交流会に貢献したい。そう強く思いますo( ̄ー ̄)○☆
終わり(仮)
未来への扉を開ける絵舞
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桃と絵舞
お昼過ぎに、香川県飯山町の桃農家の友達から、新鮮な桃が届きましたヽ( ̄▽ ̄)ノ 早速食べました! 絵舞も大喜びです。
親バカブログも五回目の投稿になります。今まで読んでくださった方々、ありがとうございましたm(__)m そろそろ終わりに近づいています。
自分が親になったからか、はたまた、お盆が近づいているからか、親父や祖母のことを良く思い出します。
両親が共働きだったので、小学校から帰ると祖母と遊ぶ毎日でした。小さいときに馬車にひかれて腰が曲がってしまったおばあちゃん。あるときは自作の竹釣竿で川に魚釣りに行ったり、またあるときは将棋を打って、おばあちゃん特製ラーメンを食べたり。僕が将棋でズルばかりするので打ってくれなくなりましたが(笑) 要するに、おばあちゃん子だったんですね。
覚えているのは、毎晩一緒にテレビで巨人戦を見ていたとき、全バッターの全打席の記録をつけながら見ていたことです。丁寧な手作りの表で。桑田、斎藤、槙原の三本柱の時代だったと思います。
ひいばあちゃん、絵舞ですよ。元気ですよ(^з^)-☆
大正生まれの祖母は手先が器用でした。
手先が器用なのは、親父もそうでした。
様々なコンクリートブロックを作る機械を製作していた、エンジニアの親父は、僕が小さいときにはいつも出張ばかりで、ほとんど会う時間がありませんでした。機械のメンテナンスで全国各地を飛び回っていたからです。だから、僕はいつも親父を見て泣きじゃくっていたそうです。誰この人、という感じで(苦笑) もし今晩にでも、絵舞にそんな振る舞いをされたら、と想像するだけで涙が出てきます。ごめん、親父m(__)m
覚えているのは、いつかの誕生日プレゼントに、会社で余った物で作った「ブリキのロボット」をくれたことです。本物の鉄製の。本当に重い、重い(笑)
親父とペットのヤギ(うめちゃん)
そんな二人を悲しませる出来事が、小学一年生の時に起こりました。おっちょこちょいだった僕が道路に飛び出して車にはねられてしまったのです。自分が親になった今だからこそ、この時の気持ちが痛いほど分かります。どれだけ心配させてしまったことか…。お墓参りでまた謝っとこう。絵舞ばぁばには面と向かって謝っとこう。
現在、健康卓球交流会で、二人と同じ年代の方々と交流できていることに、不思議な気持ちがします。感謝。
つづく
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卓球で人が、関係が繋がっていく。
健康卓球交流会に入会して約10ヶ月が経ちます。ラインで盛り上がったり、様々なバックグラウンドを持つ方々と打ち合ったり、人生で初めてブログを書いてみたり。とにかく楽しい毎日です。いつも絵舞のことを共有して下さり感謝しています。
高梁の実家には、幼い頃から卓球台が1台ありました。姉、両親、祖母も卓球をしていました。小学生の頃おばあちゃんと卓球をするのが楽しみでした。姉が卓球部に入っていたこともあり、自然と僕も卓球部に。
時は流れ、姉夫婦の息子2人(小学生低学年)もピンポンプレイヤーになっています。僕が卓球をやっていることに刺激を受けて、2人とも卓球を始めたそうです。「かずみちおじちゃんといつか試合がしたい」と。憧れの存在であり続けるために練習を頑張らないといけませんo( ̄ー ̄)○☆
(甥っ子2匹 実家の畑にて)
絵舞には最高のラケットが授与されています。最高の環境も用意されています。卓球デビュー、楽しみですヽ( ̄▽ ̄)ノ
ところで、僕は10年という期間を大事にしています。何事も10年は続けなければならない、と。親父から続けることは大事だとよく聞かされていました。大学を卒業してすぐに開設したPIECE英語塾も、生徒として通った英会話教室も10年間続けました。
また、10年先を見据えて行動することも大切にしてきました。20代の頃は30代にこうなっていたいと考えながら。そして今は理想の50代を目指しながら。ただし、健康卓球交流会に入るまでは、ここの50代の「先」は見えていませんでした。
ケンタクに感謝したいことは山ほどあるのですが、この「50代の先の世界」を教えてもらえたことが1番になるかと思います。今から30年後、果たして自分は健康に卓球を続けていられるのだろうか。ケンタクの方々のように、元気溌剌に毎日を過ごせるだろうか。目標ができました\(^o^)/
ケンタクの皆様は、人生の大先輩であり、憧れの存在でもあります。卓球で人が、関係が繋がっていく、その先に未来が広がっていきます。一刻も早くコロナが終息して、さらに健康卓球交流会が盛んになりますように。
つづく
絵舞 (6ヶ月の頃、スタジオアリスにて)
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我が家では、Happy birthweek(ハッピーバースウィーク)制度をを採用しています。つまり、誕生日を迎えた者は、誕生日より一週間は祝福を受け続けられる、という制度です(笑)
誕生日を迎えたメンバーを、より大切に想おうとする試みです。なので、この親バカブログも、もう少し続きますヽ( ̄▽ ̄)ノ
「えま」の名前はかなり早くに決まりました。妻が発案者です。妊娠初期から、えま~、とお腹に何度も語りかけていました。そのころ、逆子状態が続き心配していました。頭の向きを変えようと下からずっと呼び掛けていると、すぐにえまちゃんは身体の向きを変えてくれました\(^o^)/
もちろん医学的根拠も何もない話ですが、お医者様に話すと、他の方にも伝えてみます、と笑顔で対応してくれました。優しい!
さて、えま、の名前はすぐに決まりましたが、漢字が難しかった。女の子に「馬」はちょっとなぁ、と。結構最後まで、平仮名でいこうか、と考えていました。しかし、ふと、人生舞い上がれ、と思いつき、絵「舞」と決定しました。
自分の子どもとはいえ、ひとつの個性に名前をつけるというのは、なかなかでした。親からの最初の大切な贈り物ですから。
つづく
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続編です(笑)
ラインの健康卓球交流ルームに載せた文章と同じですが、こちらにも。
たいら会長から絵舞にプレゼントを頂戴しましたヽ( ̄▽ ̄)ノ 卓球ラケットです。表には本格的なラバーが貼られています。裏には娘さんたちがシールを貼ってくれています。このラケットで必ず卓球デビューさせます‼️ 絵舞の卓球デビューは健康卓球交流会です。絵舞ばぁば、僕、絵舞でケンタク史上初の三世代チーム誕生o( ̄ー ̄)○☆ たいら会長が認定してくれています(笑)
ここまで、ラインに送った内容と同じです。
ここから、ブログオリジナルです。
健康卓球交流会には、会長を筆頭に「親父」達と触れあえる機会があり、それが楽しみの一つでもあります。もちろん、兄貴も姉貴も、また第2、第3の母親達とのコミュニケーションもなくてはならないものになっています。
僕の親父は、他界して3年が経ちます。生きていたら今年で72歳です。妻の妊娠が分かる一ヶ月前に…。
肺がんとの闘病生活を1年間続けていました。月曜の昼下がり、毎週二人で倉敷駅から病院に歩いて通うのがルーティンでした。たくさん話をしましたが、まだまだ聞きたいことがあったし、自分が親父になったいま、尋ねたいことが増えるばかり。年々寂しさが増すばかり。
面と向かって伝えられなかったけど、絵舞の誕生日には天国の親父にかならず報告しています。
「元気に産まれて、すくすく育っているよ」
藤村和道